「ドーピング五輪」エンハンスト・ゲームズ初開催——22種目で世界記録は1つだけ。それでも投資家が勝つ仕組み

2026年5月24日、ラスベガス。禁止薬物の使用を公認した史上初の国際大会「エンハンスト・ゲームズ」が幕を開けました。

ところがフタを開けてみれば、22種目で破られた世界記録はわずか1つ。「薬さえ使えば記録は出る」という前提そのものが崩れました。——けれど、お金の流れを追う本メディアの視点で見ると、この大会のおもしろさは記録の数ではありません。記録が出ても出なくても、出資した投資家が儲かるように設計された「スポーツの形をした金融商品」——それが、この大会の正体なのです。

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まず結果から——「期待外れ」に終わったドーピング祭り

エンハンスト・ゲームズは、ひとことで言えば「ドーピングOKの五輪」です。

通常のスポーツでは、世界アンチ・ドーピング機構(WADA/ワダ。スポーツの薬物使用を取り締まる国際組織)が定めた禁止薬物を使うと、即失格になります。ところがこの大会は、そうした薬物を医師の管理のもとで「堂々と使ってよい」とした、前代未聞の催しでした。水泳・陸上・ウエイトリフティングの3競技で、選手たちは人類の限界に挑みました。

ところが、主催者の期待は裏切られます。全22種目のうち、世界記録の更新はたった1件でした。CEO(最高経営責任者)のマックス・マーティン氏自身が、大会後の会見で「もっと記録が出ると思っていた」と認めています。

数字を並べると、皮肉さが際立ちます。

  • 世界記録の更新:1件 / 全22種目
  • 自己ベスト(その選手個人の過去最高記録)の更新:22件
  • 賞金の総額:約660万ドル(およそ10億円)

主催側は「自己ベストが22も出た」「世界記録ゼロよりは投資家も喜ぶ」と成功を強調しました。

けれど、薬物を解禁してもなお記録がほとんど動かなかったという事実は、むしろ逆のことを証明してしまいました。今ある世界記録が、どれほどとてつもないものか、ということです。

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唯一の世界記録に付く「3つの注釈」

唯一、記録を塗り替えたのはギリシャの水泳選手クリスティアン・ゴロメーエフでした。男子50m自由形で20秒81をマークし、これまでの公式記録(カム・マカヴォイの20秒88)を0.07秒上回りました。報酬は、記録更新ボーナス100万ドルに優勝賞金25万ドルが上乗せされます。

ただし、この「記録」には注釈が3つ付きます。

  1. 禁止薬物を使っていた——通常の公式大会なら、これだけで失格です。
  2. 禁止された水着を着ていた——彼が着たのは、2010年に世界水泳連盟(World Aquatics)が禁止した、全身を覆うタイプの高速水着系のスーツでした。水着が記録を底上げしすぎる、という理由で禁止された代物です。
  3. 公式記録として認められない——上の2つの理由から、この記録が正式な世界記録の一覧に載ることはありません。

しかも、ゴロメーエフが「世界記録超え」を出すのは、これが初めてではありません。
2025年2月にも主催者主催の非公開イベントで20秒89を記録しており、彼にとっては2年連続の100万ドル獲得になります。

要するに、大会唯一の目玉は「以前から薬物使用を公言してきた1人の選手が、もう一度同じことをやってみせた」というものでした。記録を破られたマカヴォイ本人は、SNSで「これだけ?」と冷ややかに反応しています。

最大の皮肉——「クスリなし」の選手が複数種目で優勝した

この大会で最もおもしろいのは、薬物を使わなかった選手(=ノン・エンハンスト)が、いくつもの種目で優勝したことです。

  • フレッド・カーリー(陸上の五輪メダリスト):男子100mを2レースとも制覇。記録は9秒97で、自己ベスト9秒76には遠く及びませんが、それでも「薬漬け」のはずの相手を退けました。
  • トリスタン・エヴェリン:女子100mを2レースとも優勝(11秒25)。
  • ハンター・アームストロング:男子50m背泳ぎを制覇。

彼らが「クスリなし」を貫いた理由はシンプルです。ほかの大会への出場資格を残すためでした。禁止薬物を使えば、五輪や世界選手権から締め出されてしまいます。アームストロングは2028年ロサンゼルス五輪を目指していますが、国際オリンピック委員会(IOC)は、エンハンスト・ゲームズに出た選手を五輪に出してよいかどうか「肯定も否定もしていない」宙ぶらりんの状態です。本人はWADAの検査を何度もパスしているのに、です。

優勝したカーリーは、負けた相手選手に向けてこう言い放ったそうです——「もっとキメてこいよ(=もっと薬を使え)」。薬を使う側が、使わない側に負けて挑発される。これがドーピング五輪の現実でした。

なお、怪力対決も不発に終わりました。自身が持つ世界記録510kgの更新を狙ったアイスランドの“マウンテン”ことソー・ビョルンソン(『ゲーム・オブ・スローンズ』出演で有名)は、475kgどまり。世界最強マン王者ミッチェル・フーパーとの一騎打ちも、どちらも記録更新には届きませんでした。

ひとつ伏線を置いておきます。薬物の投与スケジュールは、当初は10週間の予定でした。それが主催者いわく「イラン情勢」を理由に8週間へ短縮されています。「薬の量も期間も足りなかった」とこぼす観客もいました。この点は、記事の後半でもう一度効いてきます。

ここからが本題——主役は「記録」ではなく「カネ」

ここまでは、一般のスポーツメディアでも読める話です。けれど本メディアとして掘るべきは、この大会が誰の、どんな金もうけの意図で動いているのかという点です。

バックにいるのは「テック富豪」連合

エンハンスト・ゲームズの創設者は、オックスフォードで知的財産法の博士号を持つオーストラリア出身の実業家、アロン・デスーザ。彼の名前にピンとくる人もいるかもしれません。かつてピーター・ティールの資金を使い、メディア企業ゴーカー(Gawker)を訴訟で破産に追い込んだ「ハルク・ホーガン裁判」の仕掛け人です。

その人脈が、そっくりそのまま出資者リストになっています。

  • ピーター・ティール——PayPalやデータ分析企業Palantirの共同創業者。推定資産60億ドル超の大富豪です。
  • 1789キャピタル——ドナルド・トランプ・ジュニアが関わるベンチャー投資ファンド(VC)。
  • クリスティアン・アンガーマイヤー——ドイツの連続起業家。投資会社Apeironを率いています。
  • バラジ・スリニヴァサン——暗号資産(仮想通貨)業界の大手取引所コインベースの元CTO(最高技術責任者)。

VC(ベンチャーキャピタル)とは、将来有望なスタートアップにお金を出し、その会社が成長したり上場したりしたときに大きなリターンを得る投資家のことです。

出資の最初のまとまった資金調達(シードラウンド。創業初期の資金集め)は、2024年1月に完了しました。その後、報道ベースでは3億ドル規模の追加調達(産油国などの政府系ファンドを含む)の交渉も伝えられています。出資者に共通するのは「人類強化(エンハンスメント)」「長寿(=長生きを科学で実現する)」「既存ルールへの反逆」といった世界観です。つまりこれは、スポーツ大会というより思想を持ったベンチャー投資案件なのです。

もうけの仕組みは「レッドブル型」、出口は「上場」

いちばん大事なのはここです。この大会は、一度きりのお祭りではありません。

2026年5月、運営会社は 「エンハンスト・グループ」として公開企業になりました。さらに「A Paradise Acquisition」という箱(後述します)との合併を通じて、想定企業価値およそ12億ドルでナスダック(米国の株式市場。ハイテク企業が多く上場します)に上場することを目指していると報じられています。

※ここで使われた「箱」とは、SPAC(スパック/特別買収目的会社)のことです。中身のない上場済みのカラ会社を用意しておき、それと合併することで、通常より手早く株式市場に上場する手法です。近年、米国で流行しました。

では、何でもうけるのでしょうか。チケット代や放映権ではありません。本命はオンライン診療(テレヘルス)と「パフォーマンス医療製品」の販売です。要は、薬やサプリ、強化プログラムを一般客に売る事業です。

米メディアTechCrunchの取材で、創設者デスーザはこれを栄養ドリンクの「レッドブル」にたとえています。派手な大会はあくまで広告で、観客に「自分もあの薬を試してみたい」と思わせ、健康・強化サービスに送り込む——という流れです。

ここまで来ると、大会の構造がひっくり返って見えてきます。

世界記録が何本出たかは、ビジネスの成否にとっては二の次でしかありません。 注目さえ集まり、「強化(エンハンスメント)」という分野そのものが世間に認知され、上場という物語が回り、オンライン診療に客が流れれば、投資家は勝ちます。記録ゼロでも、22の自己ベストと10億円の賞金、そして世界中の論争が生んだ「話題」こそが、彼らにとっての本当のリターンなのです。

選手が払うのは、健康へのリスク。投資家が受け取るのは、上場したときの値上がり益。払う人と受け取る人がズレている——この「リスクと見返りの非対称(=つり合っていないこと)」こそ、グレーなお金の案件を読み解くときの基本の構図です。

唯一この大会に「値段」を付けた市場——予測市場が外した「ドーピング効果」

そして、予測市場やベッティング(賭け)を追う本メディアにとって、最大の論点がこれです。

この大会は、米国の大手ブックメーカー(=スポーツの胴元。賭けの賭率を設定して客の相手をする業者)が、ほとんど賭けの対象として扱いませんでした。 規制やイメージ悪化を嫌ったためです。その結果、唯一お金が動いた「値付けの場」は、暗号資産系の予測市場 Polymarket(ポリマーケット) だけでした。

※予測市場とは、「ある出来事が起きるか/起きないか」を参加者どうしで売買する市場のことです。詳しくは記事の後半で説明しますが、ざっくり言えば「みんなの予想が価格(=確率)として表示される仕組み」だと思ってください。

市場の予想 vs. 現実

大会直前(5月23日時点)のPolymarketの取引から、参加者たちの「集合知(=大勢の予想が合わさった見立て)」が読み取れます。

種目 / 記録市場が見込んだ更新確率実際の結果
男子50mバタフライの世界記録(22秒27)約71% で更新するベン・プラウドが22秒32→更新ならず
ボルトの100m世界記録(9秒58)約13% で更新するカーリーが9秒97→更新ならず

注目すべきは、バタフライの「71%」という値付けが外れたことです。

陸上(ボルトの記録)については、市場は「まず無理だろう」と確率を13%と低く見ていました。そして結果も更新なし。つまり市場の予想は当たっていたわけです。専門用語で言えば、キャリブレーション(=予想した確率が、実際の的中率とどれだけ合っているか)が良好だった、ということになります。

ところが水泳(バタフライ)では、市場は「薬を使えば71%の確率で破れる」と踏んだのに、現実は0.05秒届きませんでした。市場は“薬物の上乗せ効果”を高く見積もりすぎていたのです。

この一件が示す、地味だけど大事な教訓

予測市場がおもしろいのは、「薬物がトップ選手の成績を何%押し上げるか」という、ふだんは測りようのない数字に、リアルタイムで値段が付いた点にあります。そして、その値段(71%)は、現実(=更新せず)によって「高すぎた」と判定されました。

考えられる原因は2つあります。

  1. 8週間に短縮された投薬スケジュールが、市場の見込んだ効果に届かなかった(前半で置いた伏線が、ここで効いてきます)。
  2. そもそも世界記録レベルの世界では、薬の上乗せ効果は市場が思うより小さい。

どちらにせよ、これは重要な実例です。「群衆の叡智(=大勢で予想すると賢くなる)」とたたえられる予測市場でさえ、前例のない出来事——つまり過去のデータが存在しないイベント——では、そろって予想を外しうるのです。情報市場は万能ではありません。前例のないものには、前例のない誤差が乗る。 これは投資全般にも通じる教訓だと言えます。

スポーツブックと予測市場は、何が違うのか

念のため、本メディアの基本となる論点を整理しておきます。この2つは似ているようで、仕組みがまったく違います。

  • スポーツブック(従来の賭け):あなたの相手は「胴元(ハウス)」です。賭率(オッズ)には、あらかじめ胴元の取り分(専門用語で「vig/ヴィグ」)が組み込まれています。だから胴元は、基本的に損をしません。勝ち続ける客は、口座を制限されることもあります。
  • 予測市場(Polymarketなど):「取引所」型です。参加者どうしが「Yes(起きる)/No(起きない)」の権利を売買し、運営会社は手数料だけを受け取ります。理屈の上では「賭博(ギャンブル)」というより、株や金融商品に近い「イベント・デリバティブ(=出来事を対象にした金融契約)」として扱われます。

エンハンスト・ゲームズは、この2つの市場の境目にある、格好の題材でした。既存のスポーツブックが「グレーすぎる」と手を引いたイベントを、予測市場が拾い、そして外した——この流れそのものが、両者の性格の違いを浮き彫りにしています。

日本の読者へ——「賭けられない国」から眺める、情報市場の空白

最後に、日本の話をさせてください。

ここまで読んで「自分もこのオッズで張ってみたかった」と思った人もいるでしょう。けれど日本に住む人がPolymarketのような海外の予測市場で実際にお金を賭ける行為は、刑法の賭博罪に触れる可能性がある、きわめてグレーな領域です。そして日本には、こうした「イベント・デリバティブ」を合法的に取引できる場が、事実上ほとんど存在しません。

つまり日本のスポーツ・エンタメファンは、「来週の大会で記録は出るか」「推しは勝てるか」といった問いに対して、自分の見立てを“価格”として表明する場を持っていないのです。海外には当たり前にある「情報市場」というレイヤー(層)が、日本ではすっぽり抜け落ちています。だからこそ、お金ではなくポイントで遊ぶ「賭けない予測市場」や、推し活の文脈での応用が、日本では現実的な落としどころとして注目されます。この空白こそ、本メディアが追い続けているテーマでもあります。

エンハンスト・ゲームズは「スポーツの未来」を名乗りました。記録という面では、むしろ既存記録の偉大さを再確認させる結果に終わりました。けれどお金の面では、興行・株式上場・医療ビジネス・予測市場が一体になった“新しいグレー金融の実験場”として、確かにひとつの未来を見せつけたのです。

優勝者の一人、水泳のコーディー・ミラーの言葉が、皮肉にもこの大会の本質を突いています——「強化(エンハンスメント)は効く。でも、ほかの全部(食事も睡眠もコーチも)をちゃんとやらなきゃ、意味がないんだ」。

薬物を解禁しても、記録は簡単には動きませんでした。 けれど、カネの流れは、確かに動いたのです。

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この記事を書いた人

株式会社シュタインズ

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